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国際毒科学会印象記


1998; No.6, p7-8


河内 泰英
大鵬薬品工業株式会社 安全性研究所

私にとっては国際毒科学会に参加するのも、フランス、いやヨーロッパを訪れるのも今回が始めてのことでした。そこで、出張の1ヶ月前に「フランス会話の基礎」や「パリ一人歩き」なる本を購入したまではよかったのですが、読むわけでもなく、そのうち子供の遊び道具になっていました。さすがに、出発の3日前にテレビを見ながら、ボンジュール、ボンソワールと練習しても焼け石に水は明らかでした。

忙しい仕事の合間、ポスターができたのが前日でした。出発の当日は関空で塩野義の本坊さん、大塚製薬の中桐さんと合流し、エアフランスで一路パリを目指しました。まず、パリについた時の印象は・・・・・、なぜか印象という程の感慨はありませんでした。ついに来たな!とpick-pocketに気をつけろと言われていたので、バッグを握りしめ、周りの不審な人に気をつけることでJet-lagの頭はいっぱいだった気がします。パリに来たなと感じたのは、ホテルの窓から外の景色を見たときで、それは日本、アメリカとは違う、まさにヨーロッパの町並みでした。翌日、早速education coursesに参加しました。私はChemical hypersensitivetyのcourseを選びました。講師はDr. Kimber, Dr. Descotes, Dr. Karolなど大物揃いで気持ちはhypertensionでした。講義のほぼ全内容を盛り込んだテキストも嬉しく、講義もリラックスした雰囲気で進行しました。終わりに、Dr. Kimberに質問した際、日本の研究会を楽しみにしていると話してくれました。この日は日曜日で、午後はフリーでしたのでルーブル美術館を見学に行きました。入館料が無料だったせいもあり、大変混雑していました。あまりの広さに同じところをぐるぐる回りながらもモナリザとミロのビーナスだけは必死の思いで観賞することができました。ミロのビーナスの後ろ姿を見たのは初めてで、その妖艶さにしばし立ち竦んだのを思い出します。月曜日からいよいよ学会本番の始まりでした。レクチャーやワークショップとポスターが同時進行しました。ポスターは毎日約300題近い発表があり、とても全てをみるのは困難でした。そこで興味のあるポスターをみて質問でもしようと行っても、貼られていない時はかなりショックでした。

ポスターのないボードも結構目立ちました。話によると、東欧やアジアの国の中にはabstractが掲載されただけで研究者の業績になるため、参加しない、ポスターを貼らない研究者も多いそうで、これも国際学会ならではでしょうか。私は最終日にポスター発表をしましたが、最終日にしては参加者が多かったように思います。幸か不幸か質問されたのはほとんどが日本語を話す日本人でしたが、1人の女性が英語で質問してきました。確かに英語だったのです。でも私にはほとんど最後まで英語とは判断がつきませんでした。従って、当然返答はできず、彼女からは名刺を渡されて、なぜかそのときだけは理解のできる英語で、「投稿したらreprintを送ってください」と言って、立ち去って行きました。名刺には、フランスの製薬会社の名前が書いてありました。フランス人の英語はほんと分かりずらいです。



国際学会の良いところの1つは、米国や欧州の知人と1度に会うことができるということ、普段はなかなか話すことのない日本の著名な先生とお話ができることです。今回、私の恩師であるDr. Lusterやイタリアの研究者の方と会って、久しぶりに話ができてとても嬉しく思いました。特にイタリアの研究者(女性)とは手紙やE-mailでは連絡はしていましたが、会うのはほんとに久しぶりでした。彼女の知っている日本料理店、Susi barに一緒に行き、近況などを話し合いました。しかも、彼女の友人がパリに住んでいるというので、その男性も合流しにぎやかに一晩を過ごしました。しかも、折しもその日はフランスvsクロアチア戦があり、町は得点が入るたびに、ざわめきと化していました。幸いにも、試合の終わったあとの勝利に酔いしれる群衆を観ることができました。

 4年後、同じ風景を日本でもみたいなと思ったものです。とりとめもなく筆を進めてきましたが、グローバル化の進む現在、毒性学の分野も例外ではありません、ICHでは日本も3極の中に入っていますが、やはり欧米主導には変わりありません。また、経済と同じように、アジアでの日本への期待も高まっています。そんなことを考えさせられた1週間でした。今年は不景気も影響してか、日本からの参加者は少なかったようです、みなさんも3年後はぜひオーストラリアへ行ってみてください。