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環境ホルモン問題とは何か?


1998; No.6, p3-7


香山 不二雄
自治医科大学 衛生学 助教授

1,ホルモンとは,

 ホルモンとは,生物の内部環境のホメオスタシスを維持するために働く,生理学的に活性のある化学物質の一つである。ホルモンの定義は近年の科学の進歩により大きく変わりつつある。古典的には,「ホルモンは,ある特定の場所の細胞から分泌される少量の化学物質で,血液あるいは体液に乗って身体全体に運ばれ,一般的には分泌部位から遠く離れた場所の組織に働いて,最終的には生体全体の協調性を保つ働きのあるもの」とされていた。しかし,神経-内分泌-免疫系の協調的な制御のメカニズムが判るにつれて,次のような大きな概念で考えていたほうがよいといわれている。すなわち「ホルモンとは,情報伝達を本来の役目とする生理活性物質の一種であり,ある細胞より産生され,細胞から基底側に放出され,その活動を開始するもの」

 これまでは,下垂体,甲状腺,副腎,膵臓などの内分泌腺から分泌されるものがホルモンとされていたが,胃,腸,心臓,視床下部,脳などもホルモンを産生している。脳と腸とで同じペプチド・ホルモンが作られそれぞれの機能を果たしている例も見つかり,局所ホルモン(local hormone)の概念が導入されてきた。免疫系細胞で発見されたサイトカイン類が脳や消化管でも情報伝達に協調して関与しており,ペプチドホルモンとの境界は非常にあやふやな状態である。作用様式(mode of action)も,以前は血液に乗って遠隔の標的臓器に到達して効果を発揮すると考えられていたが,現在では,すぐ近くの細部に働くパラ分泌(傍分泌,paracrine),自分自身に働く自己分泌(autocrine)などの現象も知られており,ホルモン自身の概念も大きく変わってきている。現在の知見からホルモンを大まかに分類すると,下垂体ホルモンやカテコールアミンが含まれるペプチド・アミン系と性ホルモンや鉱質コルチコイドなどが含まれるステロイド系,甲状腺ホルモンに含まれるジフェニルエーテル系の三系統に分けることができる。

 機能としては,ホルモン成長,分化,発育,生殖機能,糖脂質代謝,電解質平衡,神経,免疫系の発育や機能などに深く携わっている。近年の急速な知見の増大により,神経系,内分泌系,免疫系が一体となって,生体のホメオスタシスを維持していることが判るようになってきた。このことは,環境ホルモンが内分泌系の情報伝達をかく乱するのみならず,他の系である免疫系や神経系の正常な機能に影響を与えることを意味している。

2,自然界のエストロジェン様物質

 これまで,ホルモンはその個体が産生して,個体自らが応答すると考えられてきた。しかし,自然界の生物の中には,自分にはホルモンとして働いているのではないが,他の生物に効果のあるホルモン様化学物質を作り出す生物があることが知られている植物エストロジェン(phytoestrogen)と呼ばれている。豆科植物はフラボノイド化合物を根から産生して根粒菌に生育しやすい環境を作って,根粒を形成し空気中の窒素固定を行う共生関係を作っている。またイソフラボノイド化合物のある種の物は種々の菌の生育に阻害的に働く物もある。豆腐や味噌などの大豆食品の中にイソフラボノイド化合物は大量に含まれており,欧米人に比べ日本人に乳癌や前立腺癌が少ないのは,植物エストロジェンの作用により,発癌や癌の増殖を制御しているためではないかと考えられている。また,クローバーに含まれる植物ホルモンを大量に食べた羊が不妊になった。食べられる側の植物が植物エストロジェンを産生して,草食動物の生殖力を調節しているのかもしれない。または,野生生物では,季節毎の植生変化により,摂取する植物ホルモンが変化し,繁殖能力や繁殖時期が制御されているのかもしれない。植物ホルモンの役割は,共生関係の樹立であったり,生態系で個体数制御のメカニズムとして働いて来たのかもしれない。

3,環境ホルモン問題とは

 植物エストロジェンの人の健康影響の研究では,癌の予防,骨粗鬆症予防など,良い影響があるのではないかとする研究が行われてきた。外因性の内分泌撹乱物質の中に,徐々に人工の化学物質が見つかるようになり,1980年代にMcLaclanらが環境汚染物質の中にエストロジェン様の作用をする物質があることを指摘して,「環境エストロジェン(Environmental Estrogen)」の概念について論じたが当時は余り賛同する研究者は少なかった。自然界の野生生物にいろいろな生殖の異常が見つかるようになり,さらに実験的に追試することができ,人でも環境ホルモンとの関係を疑わせる生殖器等の異常が増えていることから,にわかに研究者および少し遅れて世論の注目を浴びるようになった。1995年頃から欧米の研究には多くの研究費が投入されるようになり,研究が盛んに行われるようになった。



4,環境ホルモンの作用様式
 エストロジェン作用や抗アンドロジェン作用のある化学物質の多くのものは,エストロジェン・レセプターやアンドロジェン・レセプターに程度の差はあるが親和性がある。これらの化学物質はその分子骨格の中にフェノール基を持つことが多い。化学物質がホルモン・レセプターに結合し環境ホルモンの作用様式は,ホルモン・レセプターとの関係だけにとどまらず,以下のように多様である。

a,ホルモン・レセプターとの直接作用 環境ホルモンとして考えられている物質は,ホルモン・レセプターへの直接結合しホルモン作用を発現するものもある。環境ホルモンが本来のホルモンと競合したり,結合を阻害したり,相加的な効果を示すことが報告されている。DESなどの合成ホルモン製剤やDDT,フタル酸エステル類などがこの範疇にはいる。

b,他のレセプターを介する作用 ダイオキシンなどAhレセプターに統合して,結果としてホルモン様作用を発現する。

c,代謝阻害剤 ステロイド代謝を阻害する化学物質。アロマターゼや5-αレダクターゼ阻害剤など。ステロイドホルモン代謝に影響を与え,結果として性分化に異常を与える。

d,他のシステムを介する作用 神経系や免疫系は内分泌系と複雑なフィードバック系を形成しているため,胎児期や成長期に神経系や免疫系へ影響を与える物質が間接的に内分泌系の発育に大きな影響を与える。内分泌系への影響は間接的に神経系や免疫系の発育に影響を与える。このようにホメオスタシスを維持している三つの系は相互に関連しており,影響評価は化学物質によっては,非常に難しい場合がある。

 以上のように,作用様式は抗アンドロジェン作用やホルモン合成阻害であったりして,環境エストロジェンという用語は適切でないため,現在では,学術的には「内分泌撹乱化学物質(Endocrine Disruptor)」またはより一般的に「環境ホルモン」と呼んでいる。環境ホルモンとして考えられている物質,その中でも規制等が考えられている化学物質のリストを表1,2,3,で示す。





5,自然生態系への影響

 野生生物の生殖異常が近年数多く報告されている。野生動物の生殖能の変化は,雄の雌化,生殖能の低下,孵化率の低下,子の生存率の低下,性ホルモン分泌および活性低下,生殖行動の異常などが含まれる。これまで自然界で観察され動物実験で証明されている多くの生殖系の異常は,胎児期にそれも発生初期に微量の化学物質に暴露し,その化学物質が性ホルモンの様に作用したため正常な性分化プロセスに異常を起こしたと考えられている。原因化学物質は,ほとんどの場合,生殖異常の野生生物が見つかった生息環境の汚染物質や動物の体内蓄積物質を測定すると,いろいろな種類の環境汚染化学物質の濃度が高いことが報告されている。単一の化学物質との因果関係が明らかなものは少ない。しかし,動物実験では,種々の化学物質にホルモン様作用があり,同様の変化を再現することが出来ている。そのため,これらの研究報告されている野生動物の環境ホルモンによる影響はほぼ間違いない。野生生物の多くの種が減少しており,絶滅に瀕している種も数多くあると報告されている。この中には化学物質の環境ホルモンの影響により,生殖機能の減少が個体数減少の原因となっているのかもしれない。

6,人の健康影響は本当か?

 人の健康影響と環境ホルモンとの関連が危惧されているものを表4に示す。人への影響については,環境ホルモン曝露量の評価が不十分で,まだ環境ホルモン曝露と健康影響との因果関係が証明された研究報告はない。

 精子数の減少,子宮内膜症,不妊,多発性卵巣嚢胞,卵巣癌,子宮癌,精巣癌,前立腺癌,停留睾丸などの増加などについても,環境ホルモンとの因果関係が疑われているが,ライフスタイルの西欧化などの他要因との関連もあり,これらの疾病増加と環境ホルモンと結びつけて直接的に結びつけて議論することは短絡的である。もちろん,環境ホルモンとの関連性は,充分あってもおかしくなく,否定することは出来ないが,まだ証明されていない医学上の学説として扱うべきである。今後,疾病罹患率と曝露評価とを組み合わせた疫学調査を行う必要がある。

7,考え方と対応策

 以上のように,環境ホルモンによって人への健康影響が起こっているのかまだ明確でない。人の健康影響についての疫学研究では,環境ホルモンがある健康影響と関連がないとする結論を導くことは非常に難しい。科学的証明では,否定の証明は非常に難しい。しかし,問題の性格上,政策決定を行うに足る研究結果が必要とされる。健康影響の大きさを評価するためのリスク評価法を早急に確立しなければならない。さらに次世代への影響を証明することは,非常に時間と研究資金を必要とする。地道に息の長い研究を続ける必要がある。

 in vitro およびin vivoの研究では,環境ホルモンのエストロジェン様作用は,17βエストラジオールに比べ千分の一,1万分の一程度の強さである。経口的に摂取する残留農薬のエストロジェン作用は,日常的に摂取している植物ホルモンの方が10倍程度高いとする研究報告もある。しかし植物エストロジェンは長い進化の過程で適応してきた物質であるが,新規の人工化学物質のエストロジェン作用は長期的に見てどの程度の影響が出るのか性急には判断できない。環境ホルモンの影響がもっとも強く出るのは,胎児期および乳幼児期,思春期までであろう。そのため胎児期や成長過程での影響評価を検出できるスクリーニング法を作って行かねばならない。野生生物への影響が動物実験により証明されれば,食物連鎖により,長い目で見れば人類にも影響することは充分予測される。野生生物の生殖を守ることは,自然環境保全のために極めて重要なことである。基本的な考え方として,自然界の野生生物への環境ホルモンによる健康影響が証明された化学物質について,現時点で人への健康影響との関連性が疫学にて否定できないのであるのなら,当該化学物質の廃棄や使用について,適切な対処を行うべきではないか。危険性の高いと疑われる物質から使用・廃棄の制限等を視野に入れて,リスク評価をすべきである。

 これまで,現代人は化学物質を大量に生産し消費して,不用意に廃棄してきた。安全性の評価については,人への健康影響がないかどうかにのみ主眼が置かれてきた。化学物質がどのように環境中で分解されるかについては,ほとんど興味を示さなかった。その化学物質の中には人を含めた生物の生殖機能に悪影響があることが明らかとなった。環境ホルモンによる野生生物への影響は科学的にすでに証明されている例が数多くある。人での疫学調査では,疾病と化学物質曝露との因果関係を立証した研究は少ないが,環境ホルモンの影響を疑わせる疾病の増加が観察されており,今後も精力的な研究を必要とする。環境ホルモンとして環境影響が予測された物質は,環境に廃棄することを減少させるように努力しなければならない。もし出来なければ,その化学物質の生産や使用の仕方を再度考えるべきであろう。