≪Non-category (寄稿・挨拶・随想・その他)≫

免疫学と病理学 


1996; No.3, p5-6


中村和市
塩野義製薬(株)新薬研究所

 医薬品の一般毒性試験においては,化合物投与後の動物の一般状態,病理学的および血液/血液化学的変化などから普く毒性を把握することが目的である。一般毒性試験と免疫毒性試験の境界は不明瞭であるが,リンパ系組織の病理学的検査,血液/血液化学的検査さらに免疫機能検査を包括したものが医薬品の免疫毒性試験と言えるのではないだろうか。

 私が免疫毒性学という領域をはじめて認識したのは,10年程前に大沢先生の書かれた「化学物質の免疫毒性」[トキシコロジーフォーラム,8(6),684-692,1985]の別刷を手にしたときである。非常に新鮮な思いで,何度も読み返した記憶がある。私は,これによって免疫毒性学が医薬品の安全性評価においても重要だと強く感じた。以来,小さい声ながらも,免疫毒性試験が今後医薬品についても必要になってくるかもしれないと会社の中で言い続けてきた。

 もう5年程前になるが,会社から免疫毒性学の基礎習得のための海外留学の機会が与えられた。そこで,まず私はオランダ国立公衆衛生・環境研究所のVos博士のところに留学を希望した。しかし,政府の機関で中立を守る必要があり,企業から人を受け入れていないということで,留学を断わられた。そのとき,当時の上司 (原田稔博士) からは「基礎学問 (特に組織学) を学んでこい」と言われていたので,胸腺の組織学が専門のMarion D.Kendall教授 (The Babraham Institute,Cambridge,U.K.) のところに留学した。彼女は免疫毒性学とは関係ないが,IPCSがまとめている'Principles and Methods for Assessing Direct Immunotoxicity Associated with Exposure to Chemicals'の「胸腺」の項では彼女の論文が多数引用されている。そこで,胸腺の血管周囲腔内に分布する胸腺細胞の種類や胸腺の生理的(妊娠,老齢) 退縮機構についての免疫組織化学的研究を行った。私は,それまで組織学的にはリンパ節しか見てこなかったので,以後胸腺に対する見方は明らかに変わった。上司が言ったように全くの基礎学問(組織学) を学んで良かったと思う。今の私の仕事は機能検査が主体であるが,病理所見と機能検査の結果とのつながりを考察するためには,非常に役立っている。

 1年間の留学もあっという間に終わろうとしている頃,上司から「日本に帰るときに他の研究所を訪問したらどうか」というファックスを受け取った。Vos博士のかつての同僚であったSchuurman博士 (現,Sandoz Pharma A.G.) がKendall教授を訪ねてきたこともあり,Kendall教授がVos博士を知っていることはわかっていた。そこで,Kendall教授にVos博士の研究所訪問のお膳立てをしていただいた。1993年の秋のことであった。Vos博士の研究所に留学を希望したときに,日本の地図でBilthovenの地を探したが見つけることはできなかった。しかし,今度は違った。留学からの帰途であったので,まずCambridgeに近いStansted空港から Amsterdam空港に飛び,列車で Utrechetに向かった。翌朝,Vos博士がUtrechetの小さなホテルに自分の通勤用の車で私を迎えに来てくれた。彼は,交通渋滞で約束の時間に少し遅れ,恐縮していた。留学を断わられた人 (彼自身は,研究所と粘り強く私を学ばせるための交渉をしてくれたようであるが) にこのようなかたちで初対面を果たすとは思ってもみなかった。Bilthovenは,そこから車で約30分のところにあった。

 彼の研究室では,スタッフが総出で次から次と光学顕微鏡,電子顕微鏡さらにSCIDマウスへ移植したヒト胎児胸腺を用いた方法による免疫毒性評価について私に講義をした。私は,そのときVos博士に免疫毒性の段階的評価方法に関して,「どのような経緯でNTPによるものとの違いができたのか」と聞いてみたのを覚えている。すると,彼は穏やかな表情で「我々は病理学が専門だが,彼らは免疫学が専門だ」と答えた。確かに,私がVos博士のところで受けた講義はすべて病理/組織学が基礎にあった。免疫学では分子生物学が主流だが,免疫毒性学ではどうしても病理学が必要になる。免疫毒性試験では病理学的検討と機能的検討が相補いあっていろいろとものが言えるのではないだろうか。通常の病理学的検討だけでは,免疫毒性がつかめない場合もある。しかし,一方機能的検討にはどうしても病理学的裏付けが必要な場合がある。免疫毒性試験は,そういった側面が強いのではなかろうか。Vos博士によって考案された免疫毒性の段階的評価方法は,このような免疫毒性評価の特徴を巧みに取り込んだものと言える。それが,今,特に医薬品の免疫毒性の評価方法として注目を集め,彼が今年の免疫毒性研究会に招かれるのもうなずける。

 私は製薬企業に所属しているものとして,免疫毒性試験が将来製薬企業の中でどのように行われてゆくべきなのかを考えている。免疫毒性が最初から疑われる化合物ならば,いろいろな機能検査を行えばよい。では,通常の化合物の場合はどうか。まずは,一般毒性試験がある。しかし,どの程度疑わしい化合物がつかまってくるのだろうか。高用量では,当然何らかの所見がでてくるかもしれない。しかし,低用量ではどうだろうか。私は,一般毒性試験を行ったことがない。そのための取り越し苦労であればよいのだが,一般毒性試験と免疫毒性試験の連携については少なからず不安を抱いている。さらに,GLP環境下で宿主抵抗性試験における感染実験をどのように行ってゆけばよいかなども考えなくてはならない。あるいは,製薬企業における免疫毒性評価の進め方として,もっと斬新なものがあるかもしれない。その答えは,次の10年間ででてくると思う。そのために,今,我々が行わなくてはならないことは,免疫毒性学の総論から各論に立ち入り基礎データを地味にこつこつ集めてゆくことだと思う。そして,その成果を皆が出しあって,この研究会で共有できればよいと考えている。